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空白の一年を綴っていけ

宗教と科学の差

どうも めがまんです。

今回はちょっと真面目な話でも書いてみようと思います。

新しい生活に慣れたのもあり最近ちょっと生活がだれてきていました。そういうときは時間を無駄にせず何か有意義なことでもするのが得策です。そんなわけでいつか考えてみようと思っていた「宗教と科学の差」について色々考えてみました。大層な話題ですが考えたことを書くだけなので特段大きなオチや発見はありません。ご了承ください。

 

宗教について

宗教というもの自体に1つの定まった定義が存在しないのはなんとなく感覚でわかることだと思います。(文部省のいつぞやの調査では100個強ほどがあったらしいです)

広辞苑では「神・超越的絶対者・神聖なものなどに関する信仰、行事」とされています。

Wikipediaを見る限りでも相当記述されているのでここらでやめておきましょう。

ここで注目したいのは、なぜ宗教が生まれたのか、ということです。

 

※ここからは完全な持論です。引き合いに出せる大きな意見はないので合理性に欠ける可能性が大いにあります。

 

僕は、人間が物事をある程度の筋道を持って解釈するために宗教は生まれたのではないか、そしてその根底にあるのは死そのものや死後どうなるかといったことへの原初的な恐れや関心なのではないか、と思っています。世界中どこを見ても土着の信仰や宗教が存在するのはそういった恐れや関心が普遍的なものだからだと考えられます。

したがってここでは、宗教は「世界の解釈の仕方や説明の仕方」、いわば「モデル」の一形態だということにしておきます。また、これらの解釈・説明は文化の相互作用で他の宗教を取り込んでいくなどの特殊な場合を除けばほとんど変わることはないというのも半ば当然でしょう。(少なくともそれは宗教が必ず通る道ではありません。)

故にこの解釈というのはできた当初からほぼ不変のものであると言えます。

 

 

科学について

日常生活においては科学は技術との繋がりのある意味で使われがちですが、本来的に科学とは「体系化された知識や経験の総称」とされています(ソースはWikipediaなのでお察し)

知識や経験というのは現象そのものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。それらを「『正しい』モデルのもとで体系化する」というのが科学の本質です。

 

さて、「正しい」とは一体どういうことを指すのでしょうか。

 

それは「現状最も矛盾や飛躍なしに現象などを説明できる」ということに他なりません。だからこそ天動説は否定されて地動説が受け入れられているのであり、熱を伝えるのは熱素という物質ではなく粒子レベルの振動であるとされているのです。

また、強調しておきたいのは、あくまで「現状」であるということ、いつでもその内容が修正されうるのが科学なのであるということです。

 

 

両者の差と今日での在り方

以上の流れから予想はついていると思います。

科学と宗教の差とはすなわち、世界の解釈の仕方のうち、修正されていくものかどうか、なのです。

 

では、より「正しい」解釈の仕方、つまり科学が現れた今、宗教の存在意義とはどこにあるのでしょうか。それは単純な話で、科学がまだ解明していない世界の部分の解釈(最も主要なのは「死後人はどうなるのか」)を担い続けるのです。とても大雑把な言い方をすれば、宇宙がビッグバンによって始まったと思われるということはわかっても、なぜビッグバンが起こったのか、その前はどうなっていたのかは分かっていない、ならばそこには宗教的解釈の入り込む余地がある、という感じでしょうか。

加えて、宗教には倫理・道徳の基盤としての役割もあることも無視できません。(これは多くの場合「死後人がどうなるのか」と結びついています。)

今のような科学が台頭するまでは、宗教というのはまさしく世界の捉え方の全てに関わるものだったはずです。その意味で、今の私たちは真に宗教を信じきることはできないのかもしれません。

 

おわりに

とりとめのない、結論ありきの駄文になってしまいました。

正直結論に近づくほど「だからどうした」と自分でも感じてきました。(そんなこと言ったら元も子もないけど)

哲学的な話題は先人が死ぬほど考えてきただろうものしかないので、この意見も誰かのn番煎じに過ぎないと思います。

こういう話題は一人で考えるのもいいですが他人と意見を交わすのも大いに楽しいものなので、なにか思うところあれば教えてください。

それでは△◇